最新情報

2004/03/01 「延安の娘」だより Vol.13

春の気配が近づいてきましたね。皆さんお元気ですか?
久しぶりの首都圏上映が始まりました。昨日は所沢のミューズ・マーキーホールという素晴らしい劇場で上映することができました。所沢市と「ぴあ」が協力しておこなっているミューズ・シネマセレクションというイベントで、今年で4回目を迎えたそうです。ドキュメンタリーの上映は初めてとか。よくぞ『延安の娘』をかけていただいたと感謝の気持ちでいっぱいです。所沢の皆さん、ありがとうございました!!
3月5日、6日には、池袋の新文芸座で上映されます。『チベットの女』との二本立てです。写真美術館で見逃してしまったという方、ぜひこの機会にご覧ください。私もできるだけ上映に立ち会いたいと思っています。顔を見かけたら、ぜひ声をかけてください。
明日からスイスのジュネーブに行ってきます。「ブラックムービー・フェスティバル」という映画祭に参加するのですが、なぜブラックムービーなのかというと、もともとはアフリカ映画を上映する映画祭だったそうです。現在はアジア映画の紹介にも力を入れているようで、ありがたいことに昨年から熱心なお誘いをいただいておりました。
それから自主上映に関してですが、ひとつ耳よりな情報があります。経済産業省がデジタルコンテンツの助成をおこなっていて、「デジタルdeみんなのムービー」というプロジェクトを進めています。これは、私たちのような映画を配給する側と上映を希望する団体または個人のお見合いの場と考えてください。ここに登録すれば、千人規模の上映にも耐えられるDVDの高品位上映機材一式(プロジェクターと再生機)を無償で貸し出してもらえます。操作はいたって簡単。これなら映写機や映写技師さんの手配を考えずに、誰でも上映会を催すことが可能です。「みんなのムービー」HPは、http://www.movie.dcaj.or.jpです。なお私ども蓮ユニバースが上映を希望する団体または個人からいただく上映料(貸出料)は12万円くらいを考えています。ご関心お持ちの方はまずはお気軽にご連絡ください。蓮ユニバース:tel03-5478-6077
それでは、5日、6日、新文芸座でお目にかかれることを楽しみにしております。

2004/01/29 「延安の娘」だより Vol.12

お久しぶりです。この一ヶ月間カンヅメとなり『延安の娘』に関する本を執筆していました。400字詰で320枚!右脳人間の私には地獄のような日々でしたが、どうにかこうにか初稿が上がりました。『延安の娘』というドキュメンタリーをどうして撮ろうと思ったのか。主人公たちとの出会いがどんなものだったのか。彼らは、その後どうなったのか。撮影中の驚くようなエピソードと併せて面白く読んでいただける本を目指しています。書くということは自分のはらわたを曝すようなことなので、正直にいって疲れました。でも、「へえー、ドキュメンタリーの現場ってそんななんだ」って感じていただければ、もっともっとドキュメンタリーが身近なものになるのではないかと思い、がんばっています。春頃から始めたい自主上映会に合わせて出版できるといいなと思っていますので、もうしばらくお待ちください。
その自主上映会の2月の中旬までには大々募集の告知をさせていただきます。まもなく、16ミリフィルムの作成に取り掛かるつもりです。『延安の娘』に関心を持っていただける方、ご覧になりたいと思っていただける方は、個人・団体を問わずどなたでも上映会を主催していただけます。どうか『延安の娘』の輪を大きく広げてください。
それから1月18日には札幌で上映会がありました。北海道新聞社とシアターキノの主催だったのですが、おかげさまで一日で1000人を超える方々に詰め掛けてもらいました。1回だけの上映予定だったのですが、急遽、追加上映を行ったほどです。札幌の皆さん、本当にありがとうございました。
来週2月7日からは岡山のシネマ・クレール石関でモーニングショーが始まります。私もお邪魔することになっていますので、岡山の皆さん気軽に声をかけてください。
上映は、2月21日から松山、27日に所沢、3月5、6日は池袋の新文芸座と続きます。それぞれの会場で皆さんにお目にかかれることを楽しみにしております。
それでは、また!

2004/01/29 「延安の娘」だより Vol. 12

新年、あけましておめでとうございます。

年明けそうそう、ねじり鉢巻で本を書いています。まだ仮のタイトルですが、「『延安の娘』への長い旅」。昨年、スタジオジブリ発行の「熱風」に連載させていただいたものをベースに、大幅な加筆修正をおこない、『延安の娘』というドキュメンタリー映画がどのようにして出来上がったのか、皆さんにお伝えしようと思っています。
この本には、ほかに2編のルポを収録する予定です。ひとつは、北京発のシベリア鉄道でモスクワを目指し、一獲千金を夢見てダウンジャケットなどを売りさばく「担ぎ屋」たちを追った、『西方に黄金夢あり』。もうひとつは、何度か作品のテーマに選んだことのある、ひとりっ子政策についてのルポルタージュです。
先日から何度もお伝えしているように、今年は16ミリプリントを貸し出すかたちで、各地の上映サークル、市民団体、大学、職場などの皆さんに自主上映会を主催していただき、全国各地を回りたいと思っています。目標は大きく、全国200箇所。3月か4月スタートを目指しています。本は、それにあわせて出版しようという計画です。
一冊の本にするには、400字詰原稿用紙で300枚必要です。自分に課したノルマは、1日10〜15枚。どちらかというと右脳人間の私には、たいへんな苦行となりますが、中国を撮りつづけたこの15年を振り返るいいチャンスでもあります。感動に打ち震えたこともたくさんある一方で、思い出すのも恥ずかしいことがらも少なくありません。ドキュメンタリーの現場がどんなものか、ワクワク・ドキドキ楽しく読める本にしたいのですが、さてさて、どうなることやら。
それでは、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2003/12/29 「延安の娘」だより Vol.11

おかげさまで東京都写真美術館でのロードショーは無事終了いたしました。たくさんの方にご覧いただきスタッフ一同、幸せを噛み締めております。本当にありがとうございました。
ドキュメンタリー映画は各地のホールで自主上映会を重ねていくのが一般的ですが、今回、私は劇場公開にこだわりました。ドキュメンタリーや中国に関心のない人にも観てもらうことで、生身の人間の持つ迫力が時にシナリオを超えた「物語」となることを感じていただきたかったからです。アンケートをみると、初めてドキュメンタリー映画を観たという方もたくさんいらっしゃるようでした。そして、海霞や王露成や黄玉嶺の生き方に、一つとして同じもののない、ご覧になった方それぞれの感情を持ってくれたことを知りました。十分な資金を持たないため頻繁に広告を打つことができず、公開情報その他で皆さんにご迷惑をおかけましたが、劇場公開に踏み切って本当に良かったと思っています。
現在は、大阪のテアトル梅田で公開中です(1/12まで)。今後の予定は、1月18日に、札幌の道新ホールで上映会、2月7日からは岡山のシネマクレールでロードショーが始まります。さらに京都、秋田、広島と劇場公開は続く予定です。
そして、来春からは、いよいよ自主上映会を始めたいと思っています。全国各地の市民団体、自主上映サークル、学校、職場、etcに、16mmフィルム(もちろん35mmも)を貸し出す形で行います。『延安の娘』に関心を持っていただけたら、どこでも上映可能です。上映会には、必要があれば、私もお邪魔して製作過程や思うことなどをお話させていただきます。『延安の娘』の輪を、どうかあなたの街にも広げてください。なお、この件については、1月の中頃までに、ホームページその他で詳しい募集要項を告知させていただきます。
それから、この映画がどうしてできあがったのか、そして、その後の主人公たちの行く末を知りたいという声も多く寄せられています。幸いなことに、いま出版の話が進行していますので、『延安の娘』の制作ノートを含めて、私がドキュメンタリーを撮ることでこの15年どんな思いで中国と関わってきたのかを、一冊の本にまとめたいと考えています。年明けには執筆を開始します。どうか、もうしばらくお待ちください。
この1年、『延安の娘』を支えていただき、本当にありがとうございました。
それでは皆さん、良いお年をお迎えください。

2003/12/17 「延安の娘」だより Vol.10

★お知らせ★
「延安の娘」を一人でも多くの方々にご覧いただくために、来年は、全国各地で自主上映会を開催したいと思っています。もしあなたが「延安の娘」に何かを感じていただいたなら、地域・学校・職場の皆さんと一緒に、ぜひ上映会を主催してください。詳しくは近々ホームページにコーナーを設け大募集させていただきますが、すでにご関心お持ちの方は、蓮ユニバース(03−5478−6077)までお気軽にお問い合わせください。もちろんメールinfo@en-an.comでも結構です。よろしくお願いします!!

★前回のつづき★

いわば“文革版残留孤児”といえる海霞(ハイシア)。その実の父親・王露成(ワン・ルーチョン)は、北京の下町・長辛店でひっそりと暮らしていました。長辛店は北京の中心部から車で40分。日中戦争の発端となった盧溝橋を渡ったすぐのところにあり、戦争中は軍民合わせて多くの日本人が駐留していた町です。それだけに住民の対日感情には複雑なものがあり、私たちも取材の当初は「日本鬼子(リーベンクイズ)」などと陰口を叩かれたものです。それでも2年目に入る頃には、「よう、また来たのかい?」なんて声をかけられるようになりました。
長辛店は国営工場のいわば企業城下町。町の中心には機関車の製造工場があり、その周辺に立ち並ぶ関連企業を含めると、1万人を超える労働者を飲み込んでいます。王露成もその一人であり、ボイラー工場の夜警をしていました。
延安で、どうしても実の父親に会いたいという海霞の気持ちを確認した私たちは、同じ長辛店から下放してそのまま延安に留まった黄玉嶺からの情報を元に、海霞の父親と思われるある男の消息をつかんでいました。それが王露成でした。しかし、その時はまだ二人が実の親子である確証がなく、慎重に調査を続けていました。
さらに不安がありました。もし王露成が海霞の父親だと確認できたとしても、彼は我々の取材を受け入れてくれるでしょうか。文革中とはいえ娘を棄てた事実に変わりありません。死ぬまで秘密を守り通したい。そう思っても当然です。そこで私は、もし娘が見つかったら取材を受けてくれるか、彼の意志を確認するため会いに行くことにしました。同行したのはやはり長辛店から延安に下放した趙国棟(チャオ・グオトン)夫妻です。延安の黄玉嶺とは長辛店一中時代の同級生で、彼から知らせを受けた趙国棟が、海霞の父親が王露成ではないかと見当をつけていたのです。
露店が立ち並ぶ賑やかな通りから狭い路地へと入っていきます。灰色に塗られた鉄の門を開けると、レンガを積み重ねて作った粗末な長屋がうなぎの寝床のように奥に向かって延びていました。その一番奥が王露成の家でした。
俳優の伊藤雄之助を思わせるヌーボーとした顔。重度の近視を示す牛乳ビンの底のようなメガネ。匂いのきついフィルターなしの安タバコをひっきりなしに吸いつづけます。長い世間話の後、趙国棟がようやく切り出しました。「お前、延安に娘がいるだろ?」。タバコに火をつける時だけ彼の横顔が浮かび上がります。「もし見つかったら、取材を受けてやってくれないか」。
長い交渉の始まりです。意外なことに娘の存在についてはすぐに認めた彼でしたが、なぜそれを、よりによって日本人の私たちに取材させねばならないのか。気ぜわしげに吐き出されるタバコの煙に激しい動揺が見て取れます。そして2時間近くに及ぶ交渉の末、最後に彼はこう言いました。「わかった。取材は受けよう。でも絶対に見つかりっこないさ」。
強い北京訛りの言葉を聞きながら、私は「ああ、彼は今、見つかってほしくないと言ってるんだな」と、彼の苦しみを思いました。
                            2003年12月17日 池谷 薫

2003/12/07 「延安の娘」だより Vol.9

100人の手下を従え、暴行・破壊・略奪の限りを尽くした紅衛兵のリーダー・黄玉嶺。彼が指揮した大衆批判で、今でも夢にうなされるという事件があります。薬品工場の老工員の家に押しかけ取調べをした時のことです。容疑は、あろうことか遥か昔、抗日戦争時代のスパイの疑い。当時は取調べといったら殴ることでした。でも身に覚えのない老工員は、革ベルトを使っての凄惨なリンチにも、抵抗の意思を表すため無言を貫いたといいます。あまりの暴行に老工員は気を失います。けれども黄玉嶺たち紅衛兵は、彼を無理やり立たせてハシゴに縛り付け、殴る蹴るの暴行を続けたのでした。肋骨が何本も折れたといいます。インタビューの中で彼は当時の造反運動についてこう答えています。「いま思い出してみると本当にやるべきではなかった。何の恨みもない人の家に乱入して暴行を加えることに、何の意味があるというのか」。
その黄玉嶺は、下放の際には自ら志願して延安に赴きました。北京市政府から贈られた「栄えある下放青年」のメダルを首にかけ、延安入りの時には仲間を代表して旗手まで務めたそうです。農民とのケンカでも睨みを利かせ、いつしか「黄風」とあだ名され畏れられるようになりました。
その彼が、急転直下、反革命罪の烙印を押され労働改造所に送り込まれたのです。下放から2年後のことでした。毛沢東の革命戦士として誇り高く文革を闘っていたはずの彼が、同級生と破廉恥な恋愛事件を起こし、相手の女性を孕ませたという「罪」を着せられたのです。3年に及ぶ労働改造所暮らしの中で、彼はその後の30年間、つねに自問自答を繰り返さなければならない言葉を看守から浴びせられました。「お前は人間じゃない。畜生だ」。
私たちが取材を続ける間、彼は常に誰かに対して心を砕いていました。海霞のため、農民・王偉のため、そしてあの北京の幹部に対してさえ。2年に渡る歳月を共にした私にとっても、なぜ彼があれほど他人に優しくなれるのか、不思議でしょうがありませんでした。
でも今私はこう思います。結局彼は、「やった側」と「やられた側」の両方の痛みが判る人間だったのではないでしょうか。革命運動とはいえ無実の老工員をリンチにかけ、下放では、恋愛という「罪」で人間性を真っ向から否定された。両極端のその激烈な体験が、彼をして他の誰にも真似ることのできない部類の優しさをもたらした、と言えるのではないでしょうか。

2003/12/01 「延安の娘」だより Vol.8

今日はまず、ご覧いただいた方々の感想をほんの少し紹介させていただきます。
時代の流れにもがき苦しみながら必死に生きていく人たちの想いが伝わった。(26歳・男性)
すごく熱をもった映画。出てくる人々すべての表情が印象的。(35歳・女性)
カメラがあるのにも関わらず、あれだけ登場人物の生きた表情を撮れたのはなぜか?(38歳・男性)
人のやさしさが、歴史の真実を明らかにしていく。(60歳・女性)
「シュウシュウの季節」「小さな中国のお針子」など文革は昔話のような気がしていたが、下放された子供たちが今50歳になって中国で生活しているのが不思議な気がした。(41歳・男性)
一つの現実を前にして、ただただ・・・という感じ。この後、食事をしながら考えます。(20代・男性)
中国で上映して今の若者に伝えてほしい。(71歳・中国人男性)
上映後、ロビーで直接私に話し掛けてくださったり、アンケートにお答えいただくなど、私自身とても貴重な体験をしています。なかには私が思ってもいなかった鋭いご指摘もあり、ああ、こうして映画は育っていくのだな、と幸せを感じています。本当にありがとうございます。この他、いただいたご意見ご感想は、近々ホームページにコーナーを設けて、できるだけ多くご紹介したいと思っています。

さて、前回の続きに移ります。男児出産後、農家の嫁の責任を果たし少し気が楽になったのか、海霞は次第に実の親の手がかりを捜し求めるようになりました。そして、北京から下放したまま何らかの事情で延安に留まったかつての下放青年たちを訪ね歩き始めたのです。しかし中国の農村では嫁が現金を持たせてもらうことはごく稀で、海霞の行動範囲は極端に限られていました。実際、彼女が嫁ぎ先の村から最も遠くに出かけたのは、出産時の病院があるわずか20キロ離れた町にすぎません。親探しは絶望的なほど困難な状況だったのです。
しかし、ついに海霞は救世主と呼べる男に巡り合います。「延安の娘」のもう一人の主人公・黄玉嶺(ホアン・ユーリン)。海霞の父親と同じ北京の下町・長辛店から下放したかつての紅衛兵の一人です。
黄玉嶺は、まるで何かに憑かれたかのように海霞の親探しに奔走します。実は彼には、海霞のことをとても他人事とは思えない事情があったからです。彼も海霞の両親と同じ境遇で相手の女性を妊娠させたことがありました。しかし下放青年の管理のため北京から派遣されていた共産党幹部に妊娠が発覚すると、彼には反革命が宣告され、相手の女性は中絶させられました。海霞の親探しを助けることは、やがて彼にとっても忌まわしい過去と決着をつける重大な出来事となっていったのです。
黄玉嶺は海霞が出産したのと同じ洛川という町で小さな食堂を経営していました。海霞の両親と同様、相手の女性とは労働改造所出所後に別れてしまいました。その後、地元の女性と結婚しましたが、その女性とも病気で死に別れ、私が出会った時には、再婚した妻と小学5年生の男の子と3人で暮らしていました。お腹が突き出た堂々たる体躯。優しく響く低い声。中学校でのあだ名は西遊記の猪八戒からとった「八戒」でした。が、なかなかどうしての男前です。しかし50歳を迎えたいま、短く刈り込んだ髪には白いものが目立ち、かつて紅衛兵のリーダーだった面影はあまり感じることはできませんでした。そう、彼は長辛店一中時代、「栄えある毛沢東の革命戦士」として数々の武闘を指揮し、暴行・破壊・略奪の限りを尽くした紅衛兵のリーダーでもあったのです。

2003/11/24 「延安の娘」だより Vol.7

おかげさまでこの連休中は、大勢の人が写真美術館に詰め掛けてくれました。見かけたところ若い人の姿が随分増えてきたようです。他にも、実際に下放を経験した方など、日本で頑張っている中国人の方々にも声をかけて頂くようになりました。上映後に聞かせていただいたご意見ご感想については、次回に少し紹介させていただきます。それでは前回の続きに移ります。
海霞(ハイシア)が実の親に逢いたがっているのを確認した私たちは、つぎに彼女がいつ頃から両親が下放青年であることを知ったのかに関心を持ちました。すると本人への聞き取りや周囲の証言から、数奇な運命を感じさせるストーリーが浮かび上がってきました。
1972年の冬、「罪の子」として密かに生まれた海霞は、生後20日目、20キロのトウモロコシと引き換えに子供のいない農家に預けられました。もらわれた家で彼女を待ち受けていたのは、辛い労働の日々でした。炊事洗濯の傍ら畑仕事にも出され、小学校も3年しか行かせてもらえませんでした。
海霞には3人の母親がいます。生みの親に、2人の養母。最初の養母は半年後に病気で亡くなり、1年ほどして二番目の養母が後妻に迎えられました。じつは海霞に実の親が北京の下放青年だと知らせたのは、最初の養母の母親だったのです。嫁に出した娘を病気で亡くした彼女は、海霞を死んだ娘の分身だと思ったのでしょう。幼い頃から、あれこれと面倒を見たそうです。そして2番目の養母に海霞が邪険にされているのを見かねて、彼女が18歳になった時、とうとう真実を知らせたのです。「我慢しなさい。お前の本当の親は北京にいるんだよ」。きっとそんな風だったのではないでしょうか。その後も何かと海霞のことを気にかけ、養父母を説得して自分が住む同じ村に嫁がせたのも、実は彼女の根回しによるものだったそうです。自分の近くに置くことが海霞にとって一番幸せなことだと思ったのでしょう。
すでに80歳を過ぎた彼女は、今の養母に気兼ねしてか、取材では決してその時の思いを口にしませんでした。しかし、陽だまりの中で椅子に座り、気持ちよさそうに海霞に髪を梳かしてもらっている彼女を見ていると、執念ともいえる強い意志を感じずにはいられませんでした。
この老婆は映画の中にも登場します。砂嵐のカットの後、海霞に手を引かれて歩く纏足のお婆さんがその人です。

2003/11/23 「延安の娘」だより Vol.6

私が海霞(ハイシア)と初めて会ったのは、2000年の1月、中国の旧正月を前にした寒い冬の日のことでした。調査を依頼していた北京テレビに勤める知人から知らせを受け、零下15度にもなる真冬の黄土高原に向かったのです。延安には、まず北京から西安まで2時間弱ほどジェット機で飛び、そこから車で7時間、北上しなければなりません。西安を出発した車は、まもなく黄色い大地を縫うように走ります。じつは延安地区だけでも台湾と同じぐらいの広さがあるのです。
海霞が暮らしていたのは、地区の中心・延安市から車で南に2時間ほど行った黄土高原ではごく普通の農村でした。到着してすぐに家を訪ねたのですが誰も出てきません。朝早くから農作業に出かけているらしいのです。村人に案内を頼み後を付いて行くことにしましたが、行けども行けども畑にはたどり着きません。険しい丘陵を歩き続けること1時間、四方を谷で囲まれた谷間のはるか向こうに、大地にへばりつくようにして働く農民の一団がありました。それが海霞の一家でした。畑が凍りつかないように、冬の間はこうして時々土を起こすのだそうです。
海の霞という広大な名前をもつ海霞は、140cmそこそこのとても小さな女性でした。日に焼けた顔に刻まれた深い皺から労働の厳しさが伺えます。とても27歳には見えませんでした。当たり前のことですが、海霞は突然の私たちの訪問を不審に思い緊張で顔をこわばらせていました。30分ほど世間話をした後、私たちが北京に暮らす実の親のことで訪ねてきたことを伝えたその時でした。海霞が満面の笑みを浮かべたのです。その顔は、とても無邪気で驚くほど幼く見えました。延安に来る前に北京の知人から聞いた話では、彼女はまぎれもなく実の親に逢いたがっており、実際に5年ほど前から捜し始めているということでした。これは私たちにとっても、とても重要なことでした。逢いたくもないのに無理やり逢わせるわけにはいきません。海霞がまるで子供のような無垢な笑顔ではにかんだ時、私は彼女が心の底から実の親に逢いたがっていることを確信しました。その後、海霞はうつむきながら小声で話してくれました。「子供を産んで初めて、本当の両親に逢いたいと思うようになった」と。

2003/11/20 「延安の娘」だより Vol.5

公開2週目に入り、ありがたいことにジワジワと口コミが広がっているようです。
上映後にいただく質問では、このドキュメンタリーを作るきっかけは何だったのか、というものが多いようです。そこで今日からは、「延安の娘」の制作ノート的なものを書いてみることにします。まずは、どうしてこの作品を思いついたのか、そのきっかけから。
話は10年前にさかのぼります。農民の土地競売騒動を取材するため初めて黄土高原の延安を訪ねた時のことでした。延安は、1930年代半ば、毛沢東率いる共産党軍(紅軍)が長征の果てに辿り着いた中国革命の聖地です。この時私は、かつて毛沢東の下でゲリラ戦を闘ったお爺さんたちに出会いました。「延安の娘」にも登場し、仙人のような飄々とした味合いをみせるあの「老紅軍」たちです。私たちを見て彼らの一人がこう言いました。「お前たちは外地から来た二組目の者だ」。「えっ」と意外に思い以前にも取材を受けたことがあるのかと聞いてみると、「そうじゃない。30年近く前に北京から大勢の若者がやって来て、腐ったジャガイモを食っては死にそうになり大騒ぎをしたことがある」といったんです。「そうか!ここにも下放があったんだ」。私はこの時、初めて下放の実態を知りました。そして、そこには長い間タブーとされてきた文革の真実が秘められていました。
老紅軍によると、都会から来た男女(そのほとんどは10代半ばの中学生です)は、厳しい労働のノルマを課せられ、ひもじい思いに耐えながら助け合って暮らしていたそうです。しかし当時は、あろうことか恋愛さえご法度。もし見つかれば反革命罪を宣告され労働改造所送りだというのです。でも、考えてみてください。親から切り離され、慣れない農作業に辛い思いをしている若い男女が集団生活を送っているのです。いくら厳禁とはいえ恋が芽生えないはずがありません。老紅軍と会って、私は、いわば「文革版残留孤児」といえる過酷な運命をもつ人が、この広大な国のどこかに必ずいるに違いないと確信しました。そして、その日から中国全土での孤児探しが始まりました。黒龍江省、雲南省、新疆ウイグル自治区・・・。取材で中国を訪れた時はもちろん、北京のテレビ局に勤める知人にもリサーチをお願いしました。
それから7年の月日がたち、よほど縁があるのか、奇しくも同じ黄土高原に一人の女性が現れました。それが「延安の娘」の主人公・何海霞(フー・ハイシア)だったのです。

 
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